別室にいる朝倉さんにもうるさく聞こえるほどの大声だった。いないのはいつものことじゃないかと、彼は思った。
「会社に泥棒が入ったみたいな感じ全然ないよな?なかったよな?警備会社から何か連絡とかあった?ねぇ?なんか変わったことあった?今やってることやめろよ!!おい!電話切っていい!!切れって!いいから、こっち向け!!朝倉は!?朝倉!?あいつか?」
専務を除いては常務から見える位置に、朝倉さんだけがいなかったため、そう言われた。
「今、ファイル閲覧しに、ちょうど常務に許可を取りにいこうと思ってたとこだったんですけど、すみません……」
普段の常務は言葉遣いが丁寧なタイプ。いつもとは違う乱暴な口調で名を呼ばれ、思わず謝ったという。
「いや、違うんだ。違う。そりゃそうだよな。お前じゃないよな。朝倉さんではない」
落ち込んだ表情でそう常務が言うと、専務が汗だくで飛び込んでくる。
「警察呼んだ。もう呼んだよ警察。もう呼ぶしかないでしょうよ。どうするの?どうする?社長とも全然連絡とれないじゃないか。常務どうするんだ?出ないよ。社長電話出ないよ。顧客先にも散々聞いたけど、ダメ!!全然いない!」
「何かあったんですか?」
事務の女性が専務に不思議そうに聞く
「ファイルがないんだよ!ファイルが!誰も鍵盗んでないな?おい、皆手を止めろ!!!やんなくていい仕事!!マジでいいから、社長がいそうなところ探せ。アポがあるヤツだけその時に行け!それ以外は探せ!見つかった俺に電話しろ!!すぐに!警察来たら、常務対応して。また戻る。行ってくる!!!」
専務が出ていくと、やがて警察が来た。常務は警察にしどろもどろな対応しか出来ていないようだった。朝倉さんを含めて社員達はわけがわからず、ぼんやりと社長探しの準備をする。「私はどこを探せば良いでしょうかね……社長のこと知らないんで、全然わからないんですけど」事務の女性は朝倉さんに申し分けなさそうに聞く。
「そうですよね…じゃあ、一緒に適当にどこか探しに行きましょう。まぁ、ありえないでしょうけど、僕の顧客の周辺とか回りましょうかねぇ」
死んだような表情の常務を残し、社員達による大捜索網が始まった。いきなりそんなことを言われてもわけがわからないから、もちろんやる気はない。ほとんどの社員は喫茶店などで時間を潰していたという。
朝倉さんと事務の女性も1、2時間で捜索を切り上げた。時間が経つごとにどんよりした不安感だけが募っていった。
「全員会社に戻って下さい。ありがとうございました」
そう専務から連絡が入った時には、もう夕方近くになっていた。専務のありがとうございましたの言葉がやけに気にかかった。朝倉さん達が会社に着くと、常務と専務の二人が社員の椅子に座って俯いていた。警察はもういない。
社員が全員集まると、いつもは気の強いはずの専務が弱々しく語りだす。
「あのすみません。今日は皆さん色々とすみませんでした。もう終わりでいいんで、皆さんお疲れ様でした。明日また来て下さい。大丈夫です。泥棒も入っていません。社長も大丈夫。とにかく明日も必ず出社して下さい。業務がありますので。本当にすみません。すみません」
朝倉さんはあんなに謝っている人を見たのは初めてだったと、その様子を振り返る。社員達はさして大した質問はせずに会社を後にした。専務も常務も答えるのは「すみません」だけだったからだ。
これが朝倉さんが体験した不思議な一日だった。不思議と表現するのは、その時点では朝倉さんはまさか社長が夜逃げしたとは思っていなかったからである。
その日以降の話であるが、社長が不在のまま3日間だけ業務が続けられたと朝倉さんは言う。そして、4日目の朝、突然倒産が告げられた。
朝倉さんが元同僚から後になって聞いた話によると、実は倒産の二文字は社長、専務、常務の3人の間では、かなり前から眼前にちらついていた話だったのだそうだ。
追い込まれた社長は『金のなる木』の顧客情報のファイルを競合他社に転売して、自分だけは助かろうとしたのだろう。結果、会社の倒産は超加速化し、社員達は大迷惑を被ったというわけだ。
よくある話だとは聞くが、ある日突然……しかもごく普通に業務をしているのに、実は裏で社長が逃げていたという状況は、世のサラリーマン達からすれば、なかなか地味に恐ろしいお話である。