バーチャルボーイ自体を持っている人があまりにも少なかったことと、友人宅に持ち運ぶゲーム機としては、重すぎて対戦しようという発想自体が生まれなかったことが招いた悲劇だった。
そのため、もし奇跡的に通信ケーブルが発売されたとしても、ビニール紐代わりにコントローラーを束ねるぐらいしか、おそらくその用途はなかったと思われる。
つまりバーチャルボーイは、そんなこんなで何処までも「おひとり様用」の孤高のゲーム機だったのである。
さて、前置きが長くなってしまったが、私はそんなバーチャルボーイと『初めてのゲーム機』として出会うことになった。
近未来を思わせるそのフォルム。金が足りなくて買って貰えなかったプレイステーションに、ちょっと似た感じのコントローラー。正直な話プレステの方が欲しかったのだが、お年玉と誕生日プレゼント前借りの合わせ技でもまだ足りなかったのだ。
そんな話はまぁ良い。 当時中学生だった私の闘いは、とにかくその日から始まった。
画像:バーチャルボーイのコントローラー。初代プレステのコントローラーが垢抜けたかのようなスタイリッシュなデザイン。ご存じの通り、プレイ画面も赤が抜きんでていた。
一番面白かったソフトは3Dにあんまり関係ないテトリス
ビックリするぐらい置いていないソフト。運よく置いてあっても中古がないゆえの金銭的制約。 まだ少年だった私には苦渋の日々だった。
購入したゲームの攻略上の悩みは、最新のドラクエやファイナルファンタジーといった話題で盛り上がるクラスメイトには相談できなかった。話にもついていけなかった。
家に帰り一人スコープを覗き込む瞳には、画面の色が反射して血の涙が浮かんでいるようだった。少しでも布教活動をしようと思い、友達が家に遊びに来た時にやってもらったこともあった。
しかし、話しかけても状況的にどうしても半分シカト状態になりがちな特性上、待っている時間がひどく長く感じられた。
夏に購入したので、スコープの周りはムレて汗臭くなった。それでもあきらめず、生涯で購入したソフトは3つ。
最初は本体購入時に一緒に買って貰ったマリオズテニス(任天堂)。次に買ったのは残りのお年玉を使って中古で買ったテレロボクサー(任天堂)。
最後はV-テトリス(BPS)というバーチャル3Dである必要性が余り感じられないソフトで、それが今までやったソフト中で一番おもしろかったという有様だ。
そしてついに、私の闘いは決定的な展開を迎える。
別れに思わず目を赤くしてる?
彗星の如く訪れた突然の別れ
1995年の7月に本体が発売されたのにも関わらず、同年の12月末を持って新しいソフトが出ないという予測不可能な事態が私を襲ったからだ。自分で蒔いた種とはいえ、この時ばかりは絶望した。
しばらくすれば国内販売全19種(ほんとに全19種だよ!)のソフト達が投げ売られることが予想されたものの、私はこの時、コントローラーを置く決意を固めた。
だが、不思議と恨むような感情は生まれなかった。
大人になった今では、この少年時代の思い出にむしろ感謝しているくらいだ。 こんな風な話のネタが出来たのも彼のおかげ、久しぶりに同年代の人と話すには良い笑い話だ。
ニンテンドー3DSという商品が生まれたのも何がどうなるとそうなるのかわからんが、何か彼のおかげらしい。
最初のハードは任天堂を選んでおけば間違いない。これだけ説得力のある定説をここまでピンポイントで外した人間も珍しいだろう。
今でも私の実家の押し入れでは、当時の機械の友達、仮想少年バーチャルボーイが寝息をたてながら静かに眠っている。もう多分彼を起こすことはない。
あの日々のことを想う。思い出そうとする。すると、目の前がレッドアウトする。あれはそれぐらい強烈な『赤の時代』だった。